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I'm still looking for.

「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<映画>”モンスター”であなたをみたときからずっと気になっていたの

映画(注、結末が含まれている)

はい。

日本では6月20日に公開された、マッドマックス怒りのデスロードをようやく観に行きました。

wwws.warnerbros.co.jp

 

***以下、上記映画の結末部分が含まれています***

この映画が人気を博している理由として(人気を博している、はほぼ私が単にそう感じているというだけなのですが、あっ、ヤフー映画でもHEROやバケモノの子よりも星評価が高いです(マッドマックス 怒りのデス・ロード - 作品 - Yahoo!映画))、はちゃめちゃカーチェイス・ど派手なアクション映画であろうとして、スプラッタや残酷描写に走っていないところが受けているのではないかなーと思いました。ずっと戦っているので負傷しているひとがたくさんでているしスプレンディドもこうなってこうなってこうなってこうのだけど、痛すぎるシーンは露骨には映らず(スプレンディドの話やフュリオサが弱っているシーン等々、またマックスも結構序盤から痛い目にあわされているけれど、映らないために背面がどうなっているかはよくわからない)、気持ち悪い効果音もほぼなくて、少年漫画的な絵を実写で繰り広げることに注力している感じに好感を持ちました。イモータン・ジョーがフュリオサの奪ったウォータンクを追いかけるシーンで、太鼓をたたいている人たちやギターをひいているひとたちを景気付け?に引き連れていくシーンもすごく気に入りました。

話としては、熱狂及び、現実への対峙の話であると思いました。まず、タイトルにも現れている主人公マックス以外の登場人物は、それぞれにある対象に対して熱狂しています。ウォーボーイズはみんなイモータン・ジョー(”不死身の”ジョー)に熱狂して命を捧げようとしている。フュリオサは「緑の地」に熱狂しています(イモータン・ジョーを裏切ってデス・ロードに乗り出すくらいに)。フュリオサについていくブリーダーズ(←字幕ではブリーダーズ、とはでてきていなかったと思うのですが、こうよばれているシーンがあってすさまじさを感じた(感想を述べる語彙力のなさ))も、イモータン・ジョーからの逃走・そして「緑の地」での暮らしを夢見てそれに熱狂しています。イモータン・ジョーは自らの覇権と富に。ていうかブリーダーズに必死で子どもを生ませようとしていたけど、まあまあ元気そうな大きい息子もいるんだしもういいじゃんねと思ってしまった。いくら美人をかこっててもあんなに嫌われてるのに一緒に過ごすの切なすぎるでしょ(アフガン零年を思い出しました)。ここでちょっと面白いなとおもったのが、作中ジョーへの熱狂を捨てフュリオサ側につきめざましい活躍を果たすウォーボーイ・ニュークスです。ニュークスは他の多くの人間たちと同様汚染された環境にあってもう寿命も長くない。ジョーのために魂を捧げようとしていて戦いの中で死ぬのもいとわない。ジョーと目が合った、ジョーが英雄の館にいれてあげるっていってくれた云々でものすごくがんばろうとします。ですが紆余曲折あってフュリオサ側につく際、彼はブリーダーズのひとりケイパブルと心を通わせて恋をするのよね。彼にはそれまで一方通行の熱狂(toジョー)しかなくて、友達とよんでるのは自分の肩にある腫瘍のこと(これも一方通行)。それがケイパブルになぐさめられる機会があって、ジョーとは決別する形でフュリオサ側につき、ジョー側と戦っているうちに強敵を倒すために自ら犠牲になるという役なのです。でもこれ結局熱狂の対象がジョーから美しい女のコになっただけやんな。ブリーダーズやフュリオサ(フュリオサも女のコだけど)、そしてケイパブルこそのために自分の魂を捧げたわけだもん。確かにケイパブルもニュークスと仲良くなるんだけど、このときにはもうニュークスは自分の他人に対する好ましい気持ちを、命まで差し出しちゃう熱狂でしか表現できないひとになっているのではないかな。そしてこの映画は熱狂だけのひとは死んでしまって、熱狂を抜けて現実に対峙できたひとだけが生き残る映画なのかなと思ったよ(マックスは除く)。スプレンディドの死は彼女がまだ「緑の地」の現実を知らない時点(すなわち熱狂を抜ける前)で訪れるし。その一方で、「緑の地」の現実を知った(熱狂を抜けた)フュリオサたちは砦に戻り、心の中の蜃気楼ではない現実の「ホーム」であるところの砦の世界を構築し直そうとするのだなと思いました。まあニュークスは絶対途中で裏切るやろと猜疑心たっぷりだったために、自然とニュークスに注視の目がいきました。

と、マックス以外の登場人物の話をしたところで、当のマックスは熱狂する対象をもたない。同時に現実世界への対峙もない。マックスはもうマッドになってる(理性を失っている)からそういう感情はどこかにおいてきている。今後現実世界と対峙することになるフュリオサたちと袂を分かち群衆にまぎれていくエンディング、これも上手だなーとおもいました。一方でマックスはただのおかしい人ではなくて、一応スプレンディドの活躍に親指をちいさくあげて応えたり、弱っているフュリオサに呼びかけたりして仲間意識をもつ瞬間がある。熱狂と現実世界への対峙、は観ている人次第でこれはいいものだ・わるいものだという評価が別れるかとおもいますが、マックスの示す控えめな仲間意識の表出は概ねの観客にとって好ましく感じられ(マックスはわりとおじさんなんだけどちょっといじらしいところがある)、観客にマックスへの親しみをもたせたのではないかと思います。マックスのキャラクター設定が絶妙とかんじました。

また、ツイッターでフュリオサがジョーに「私を覚えてる?」と聞くシーン、あれはどういう意味なのかという話になっていたようにおもうのですが、個人的にあれはジョーがこれまでさんざん人間をモノ扱いしてきたことへの糾弾の台詞ではないかなと思います。ジョーはスプレンディドがお気に入りなのよね。彼女を抱き上げて泣くし。でも結局助からないとわかると******だし(モノ扱い)。女のコたちのことを所有物とみなしているし。これは本当に妄想なのですが、ジョーからすれば、フュリオサは捕まってから何回も逃走しようとした、といってるんだから、本当は遠征とか任せられない危険人物のはず。でも結局フュリオサの能力をみて彼女を高い地位につけて国民に対し自分への熱狂を煽る道具にまで利用している。フュリオサは心の中でいつか逃げ切ってやるとずっと思っていて、母を殺された恨みも忘れていないのに、ジョーは自分の心を無視して戦力としてつかえるかつかえないかだけで判断している。ブリーダーズの女のコたちに対しても、うつくしく若い女を集めて自分の物にしただけで、結局その心をみようとしていない(ジョーをとても嫌っている)。自分の子どもはもういるのに覇権のためにもっと子どもを生ませようとしている。結局ジョーはフュリオサのことを「強くて自分にとって役にたつ人間」、スプレンディドたちを「自分の子どもを生む自分にとって役にたつ人間」、ウォーボーイズを「自分の覇権維持を支える自分にとって役にたつ人間」というふうにその属性でしか図らず顔をみない。フュリオサのあの発言は、おまえは・ひとを・ひととして・みたことが・あるのかという糾弾だったのではないかと思っています。

はい。

あとわたしはこれまでのマッドマックスシリーズをみたことがないせいかもしれませんが、マックスがおれはかつて警官だった、と言うところ、最初から警官のでる幕のなさそうすぎる世界とのアンバランスにちょっと笑ってしまいました。

タイトルにも書きましたが、シャーリーズ・セロンは本当に役の幅がひろい

movies.yahoo.co.jp

こっちはずっと辛い映画だったわね。

2作を並べて、現実と対峙したあとの、再帰のチャンスについてかんがえてしまいました。

 

おわり