読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

I'm still looking for.

「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<宝塚>「激情−ホセとカルメン−」を観る。(2013年)

激情ーホセとカルメンーを観る(とはいってもスカイステージ(※宝塚専門チャンネル)にて)。

以下には物語の結末がかいてあるので、録画とか何とかしてみよっかなー結末まだ知りたくないなーって人は読まないでください。きっと!先に!作品を!みたほうが!いいよ!

 

正直、今宝塚にいる誰の舞台よりも姿月あさとさん(主演の男役さんね)の舞台が観てみたい。立ち居振る舞いがめちゃくちゃりりしいのですもの。やせてない感じがいいんだ。でもこれが上演された99年はB.T.(Before Takarazuka)14年なのだった。

ストーリーはビゼーカルメンを下敷きにしている。主人公のホセ(姿月さん)はカルメン(花總 まりさん)に恋をして所属していた軍隊もぬける。いろいろあってホセはカルメンの属する「狼の群れ」ジプシーの一味に加わってアウトサイダーになる。カルメンの近くにいられて幸せな一方で、彼女はひたすら自由なひとなので、ホセのこと「好きよ、でもしばられるのは嫌」なのだった。

ホセは嫉妬もあって3人くらいひとも殺しちゃう。あげく(ここはおねがいだから作品自体を観て、85分あたり)ホセは「すれちがうこころ どうしてもどせる」なカルメンすらも手にかけてしまうのでした(ここ悲しすぎて驚く)。

問題はここから。 カルメンを殺して捕まったホセは、死刑になる。死後ホセは(多分)天国にいて、そこにはカルメンが待っている。 カルメンはホセをみて優しく微笑む。ホセは観客には背を向けて、カルメンによろよろと近付いていく。ここで幕。

……この終わり方、わたしは日本の怪談、小泉八雲的な不気味さを感じたよ。それまでの90分はめちゃくちゃいい話なのに… 確かにカルメンは自由なひとだったけど、一番好きだったのはホセだったから別に天国で会えるのはおかしくない。でも、天国にいって初めて二人だけの世界で幸せになれたっていうのはおかしすぎる。それじゃ死後の世界がホセにとって有利すぎる。しかも天国でカルメンがよそ見しないならもうそれ別人格じゃない?ホセの理想が天国でやっと実現してホセは安心したっていう描写だけど、それカルメンの気持ち無視してない?カルメンは「空気のように自由でいたかった…」って言い残して死んでるのに!!(ここお願いだから見てね)

ということは、です。これはホセの理想がホセの眼前にモニターのようにうつっているだけなのでは…これわたし知ってる…小泉八雲の耳無し芳一や…高貴な人たちの前で琵琶弾いてるって思ってたけど実は壇ノ浦に沈んだ平家一門の魂だったってやつだ……ホセ…そっちにいっちゃだめ… ここでわたしは、自分の幻想に描かれた「カルメンらしきもの」と天国で「永遠に」結ばれたままになるこの不気味すぎる描写に身震いしたのでした。

 

とはいってもね。ここには二通りの解釈があるよ。 まずは、単に整合性とれてないというかホセの立場にたってるという解釈。花總さんはこの舞台で男役を盛り上げるだけじゃない多分最高にかっこいい娘役を演じている。正直カルメンこそが主役。ホセはカルメンのこと気になりすぎて早い段階で自分を見失ってるし。でもこの舞台は最終的にはホセの目線で見てね、というメッセージだと言う解釈。

次に考えられるのはこれ。わたしの敬愛するところの坂口安吾氏は『夜長姫と耳男』でヒメにこう言わせている。 「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。」 ホセのカルメンへの気持ちは相手への相互理解とか尊重とか敬愛とか慈しみとかちょっとあのコいいなとかじゃない、自分の気持ちの押し付けの最終形態としての「好き」であるという解釈。いわゆる阿部定さんの「好き」(彼女は相手に頼まれて殺したっていってるけど、彼女は相手を殺してさらに咒っている)。 安吾さんは三千代さんと行き当たりばったり(ここには語弊があるかもしれないけど)の同棲をつづけ、籍もいれるけれど好きに生きていて(わたしはこの文章が気に入っている『我が人生観 (一)生れなかった子ども』 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43195_22374.html)、その場の雰囲気で心中したりしないし、他界する2年前に子どもがうまれてからちょっと貯金しよっかなって気持ちになったりする。一方でヒメのこの言葉、阿部定さんへの強い関心、『桜の森の満開の下』に広がる狂気、安吾さんはこの「好き」に強烈に惹かれている。突き詰めた妄想、結局相手へを理想のものとして描く他ない突き詰めきった押し付け、咒うか殺すか争うかしか道のない狂気、に対してあてられる「好き」について複数回書いている。そしてこの「好き」はどうやら本当に存在する。それを示してるのが阿部定さんなわけだし。ホセのカルメンに対する「激情」はこの「好き」じゃないのかなとわたしは最初のショックからいったんたちなおって考えてみました。すなわちホセの「好き」は押し付けの狂気で、天国でやっとその狂気が成就しているという解釈である(すみれコードにひっかかってわたし消されるかも)。 後者の解釈が正解なら(正解じゃなくてもいいけど前者の解釈が間違ってるってわたしは信じたい)天国のホセの前に現れるカルメン、ホセに殺されて天国に行ったスニーガ中尉(ホセの恋敵1)の前に現れるカルメン、同じくガルシア(ホセの恋敵2)の前に現れるカルメン、同じくエスカミリオ(ホセの恋敵3)の前に現れるカルメン、そのほか舞台にもでてこなかったあのひとやこのひとの前に現れるn人のカルメンが無数のモニターにうつしだされて各自の目にはひとつの微笑しかもう映りこまない。しかもそれ「カルメンらしきもの」だからね。っていうかほかのひとたちにとってカルメンがそういう相手だったのかそれすらわからないからね。耳無し芳一がお屋敷だ♪っておもってたところ墓場だったからね。でも芳一の面倒をみてたお坊さんはすぐ平家の魂が芳一をひきずりこもうとしてるって気づいたからね。芳一は耳だけとられて助かったけどホセもう死んでるから助かるとか助からないとかないからね。

安吾さんの死んだのがさらにさかのぼってB.T.58年なのが悔やまれた。一緒に見に行きたい。