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「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<映画>「白いリボン」を観る。(2013年5月)

“6.51  懐疑論は論駁不可能なのではない。というより、問うことのできぬところに疑いをさしはさもうとするゆえに、それはまぎれもなくナンセンスなのである。なぜなら、疑いがなりたちうるのは、問いがなりたつときにかぎり、問いがなりたつのは、答えがなりたつときにかぎり、答えがなりたつのは、なにごとかを語りうるときにかぎるから。              

                   ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』より”

 

2013年3月15日、京都シネマにてミヒャエル・ハネケの「愛、アムール」(http://ai-movie.jp/)を観る。

***注意:以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。***

ハネケの作品は2年前にも観ていて、それは「白いリボン」だった。人々は逃れることのできない狭く陰険な共同体に暮らし、互いを(それをあからさまに示す者もいれば示さない者もいる)貶めあって生きている。物語を語る立場にある若い教師と領主の家で働く子守りの恋だけが唯一の物語の「光」であって、しかし闇から生まれた光はそれを絶やさないためにもまた闇を生むほかないようにわたしには思えた。そしてこの映画の最も恐ろしいところは、登場するすべての、他人に貶められたひとたち、そして他人を貶めて生きていくひとたち(両者は重なりあってもいる)のもれなく全員に自分自身を十分投影しうる点にあって、そういう意味でわたし史上、ニコール・キッドマンがひたすら気の毒な「dogville」や一緒に観ていたひとが退席してしまった「es」を押しのけて「狭くて逃げられない共同体怖いよね」シリーズのトップに君臨してきた。

冷たい水に顔を浸けられて、気を失う前に引き上げてはくれるものの息を整える間もなくまた水に浸けられる、の繰り返しのようなこの苦しい苦しい映画を観て、わたしは最低限他人を尊敬することだけは忘れずに生きなくてはと感じた。そしてまたわたし自身を、一個の人間に対する尊敬を持って扱ってくれるひとたちとつきあわなくてはならないと感じた。そうしなければ心が死んでしまう。

しかし、です。 今回の「愛、アムール」は前作とは正反対で、互いが互いを敬い愛している共同体について描かれている。愛、というと、そしてアムールなんていってしまうと変な情感がこもってしまうような気がするけれど、主人公は「仲のいい」老夫婦だ。 映画の中で、妻であるアンヌは半身麻痺になったのをきっかけにどんどん身体も精神も今までの形を維持できなくなり、あらゆることがわからなくなっていく。 そして最後には夫であるジョルジュ自らアンヌを殺してしまう。痛い、という言葉をただ繰り返し続けているアンヌに対して、悲しいときにははがきに星のマークを書いて送る約束を母としていたという話をしたあとだ。「そのはがきはもうない」。

わたしはジョルジュとアンヌのような共同体が本当に存在するのかを知りません。映画の中で繰り返されるハッピーエンドを現実世界で観たことなかったの。なぜなら意図的に切り取ったエンドクレジットの後も人生は続き、得てしてそれはハッピーエンドを保てないように見えた。そして保てないそれはわたしにはハッピーエンドであるとは感じられなかった。でも少なくとも互いを敬うという意味で彼らの共同体は疑り深いわたしの目指すべき形であったとは思う。でも片方がもう片方を殺してしまいました。 ハネケは映画の中で鳩を2回登場させている。鳩がアンヌの象徴なら、アンヌを粗雑に扱っていたヘルパーをクビにすることも、ジョルジュ自身がアンヌを殺めてしまうことも、アンヌを楽にするという意味で並列に位置づけられている。しかし鳩と同様意思表示の方法を、そして表示する意思をおそらく持たないアンヌがいったい何を望んでいるかはわからないままになっている。アンヌがもちろん自分の意思からではなくとも「先に壊れてしまった」ことによって「互いに」敬うという共同体の形自体は崩壊してしまっているのだ。

とはいえ、ジョルジュの最終的な行動をみたわたしが、いかに理想的な共同体も最後は内部崩壊して終わるのだ、という結論によって自分の半分まで殺された気持ちになるのは、ハネケの意思としては多分正しくない。「互いに」形成した二人の共同体はとてもとても美しかったし、ジョルジュはアンヌが壊れてしまったあとも彼女を共同体の構成員として尊敬してきた。それがたとえいびつなものだったとしても、不思議な事にそれは共同体と映ったし、ジョルジュのアンヌに対する敬意をもって変わらず美しかった。

今手元にあるちくま哲学の森2の帯にはこうある、「どのような瞬間にも永遠はある」。 永遠は瞬間にこそある、とわたしは考えた。