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「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<内心>耐性さよなら耐性

この前試しにLINE通話で海外にかけてみたら、平然とそれはつながったの。

向こうの声はクリアに聞こえたし、後ろの環境音まで聞こえたの。英語でした。

 

myspacemixiときてFacebookあたりで、もはや物理的な距離に遮られたさよならは死んだらしいとわたしは考えるようになった。Facebookがただ知己の誕生日と結婚報告を確認するためのツールになりつつあることはおいておいて(だってすぐ出身校とか宗教とか恋愛対象とか聞いてくるんだもん)、とりあえずFacebookを使えば相手とすぐ連絡できる。逆に、物理的な距離に邪魔されているという言い訳はできなくなって、自分自身の相手と連絡を取り続けようという気持ちひとつが試されるようになったと思う。そしてFacebookはただかかるさよならを禁止しただけではなくて、連絡を取り続けようという気持ちの促進に結構尽力してくれるようになった。メールアドレス変更の連絡も必要なくなったし。そしてLINE電話、何もすることなくてただ電話してみたけだるい気持ちのまま子午線超えれちゃう。放課後の高校生みたい、と付け加えようとしたけれど、放課後の高校生だったときは通話料高かったからもっと要件まとめてた。

 

というわけで、およそ生きてるかぎりさよならは意味をもたない。もう連絡しないという自分の意思だけが、相手とのさよならを決定する。

 

でも、自分が一方的に相手を応援しているときは違うよね。ずるい話何かのファンっていったとき、一方的に応援できるっているのはわたしにとって大きなポイントです。好きなときに自分のできる範囲できゅるきゅるしていればいいんだもの…姑息な話相対する関係よりよほど容易い。でもこれにはまださよならがあるね。というより出会ってないから、さよなら自体ないのかもしれませんが。

わたしは容易いほう容易いほうに流れていっている気がする。そして世界もそれをFacebookが無かった頃にくらべてぐいぐい後押ししてくれているような気がする。エリーちゃんもうマッサンに見切りつけたほうがいいっていう意見がこのところ毎朝ツイッターに出てくる。わたしもマッサンは今後ちゃんと成功するって史実から知らなければきっと同じように思っている。逆に自分の気持ちだけで選べてイージーだから相手から言われるさよならに耐性がなくなっている。

今日宣告されたさよならはさよならの場数の減った非・デジタルネイティブの心にしみました。