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「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<映画><ミッドナイト念仏>人の集まることについて(2014年4月)

横道世之介」という映画をみる(http://yonosuke-movie.com/

舞台は80年代の東京だが、わたしはわたしの京都をこの映画に見たように思う

連続を排して「今」のわたしのためだけに、わたしが所有していたわたしの京都だ

圧倒的に素敵だってことわたしは完全に知っている

ミッドナイト念仏なるイベントがあることを、数年前から聞いていた

今年!念願かなってはじめて行きました

知恩院山門楼上にて(結構高い)、御忌大会(法然上人の法要)の一環として今年は4月18日の20時から翌朝7時まで木魚を叩き続けるというものです(だれでも参加可能)

楼上の中はろうそくや間接照明(?)がある程度で、薄暗い

その中で100人弱のひとが並ぶ仏像に向きあって木魚を叩いている

わたしは木魚を前にして、なんだか木魚が痛がっている気がしてあまり強く叩けなかった(叩く部分の手触りは、潤いの抜けた細胞壁・皮膚の固くなったかつての子どものようだったから)

自分の音はそのせいもあってあまり聞こえてこない

時々どこかから半音くらい高い木魚の音が聞こえてくる

そして叩くタイミングは各自ばらばらなのだった

楼上の北側には和太鼓(?)が置いてあり、だいたいお坊さんがそれを叩いているのだけれど、そしてその音が一番大きいしそれにあわせようとするのだけれど結構難しい

よくよく聞いているとその太鼓の音も決してリズムが一定ではないのだった

ただみんなで鳴らす木魚の音は心臓に響いてきて、こんな単純な動作にも、音や叩き方、座り方、タイミング、目を閉じるか閉じないかに個性のようなものが生まれそして各自がそれとしらずそれを主張していることについて、一方で、ここに居合わせたわれわれは(同行者を除き)見ず知らずでありながらお互いを尊重すらしてまとまっていることについて、わたしは考えた

きっとこの動作は最も単純なたとえであって、あらゆる動作に生活に当てはまる そう考えながらわたしは木魚が痛くないであろう程度に木魚を叩きつつ天井の絵のとてもカラフルなことや脚がしびれることや当日深夜になってついてきてもらった同行者がそれなりに楽しいとおもってくれているかということや太鼓を叩いているお坊さんは疲れないのかということや隣の女の子の髪型がかわいいことなど雑念が絶えず、夢十夜のあの夢や豊饒の海はわたしに近寄ってきた

真ん中の一番立派な仏像は、ろうそくにぼんやり照らされた口元が動いていてわたしはそれにも気を取られていた

わたしはまだあのバスの、ステップに足をかけたところ