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「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<映画>「立候補」を観る。(2013年8月)

元・立誠小学校の一室がシアターになっている( http://risseicinema.com/ )。三角座りで映画を観られるとてもいい所。勧められた『立候補』( http://ritsukouho.com/ )を観に行きました。

 

3年前(?)、わたしは神様が混沌を矛でかき混ぜて生まれたあのあぶくの中にあって「学祭スタッフ」等と呼ばれる自発的かつ無償の活動に従事する一員であり、その一環としてマック赤坂氏の運転手氏ともめた。学祭で人通りがとても多い中、彼があの大きい白い車を止めて人の往来を邪魔する上、拡声器を使って学生の自由な活動たる放送その他を妨害するからだ。

わたしはまるで噛ませ犬のように彼らに立ち向かっていき、その時のマック赤坂氏は公道の使用許可を持っていて、運転手に大変すごまれました。キャン。怖かった。

あの時氏は選挙活動の一環として大騒ぎしていたのかどうかはわからないけれども、わたしはその公道使用許可に何も言い返せなかった(実はその一年後(?)わたしは同じあぶくのなかで氏と再会し、そのとき直々にスマイル美人に認定され(やったあ笑)、あのときは申し訳なかったと言ってもらっている)。今になって考えると公職選挙法には140条の2第2項があるからあのほとんどキャンパスといってもいいような道で拡声器を使わせないことぐらいはできたと思う。氏のスタイルはまさしく「連呼行為」にあたると思うし。

しかしあの一件はわたし自身の無知によってわたしの完全に敗北だった(あの頃はこの件に限らず、「学祭の円滑な遂行」だけがわたしにとっての是非の判断基準であったようにも思う)。

そして今回の映画はわたし自身もその構成員である「全体」の無知を示すものだった。3年前わたしはあっさり公道使用許可に敗北して悔しい思いをしたけれど、映画の中の警察官も公安も他候補も、誰一人としてマック赤坂氏が使いこなすところの、「法治国家によって保証された根拠」に基づいて氏に「黙れ!」とは言えないのだ。彼らの「黙れ!」は多数派が構成する日常に突然はいりこんできた異分子を排除しようとする脊髄反射的な反応にすぎない。すくなくとも公職選挙法について彼らは圧倒的に無知だった。

 

☆彼は多分、世の中の構成員が「気分」によって是非を判断しているということに気づいてそれにものすごく違和感を感じている。その「気分」を作り出している現在の多数派が本来の敵なのだということをわかった上で、現在「法によって許された対決方法」であるところの選挙制度というルールの上で戦いを挑んでいる。自民党演説に日本国旗をもって集まる「国民」がもうずっと昔から「気分」にのっとられていることを知っている。だからこそ彼の提案する政策(?)は「気分」の域を出ない。あなたたちが是非を判断する際の基準はいいように作られた「気分」なのであって「気分」にもいろいろあるんじゃないですかということをその対極にあるおにごろしのパックを飲みつつ踊って歌う「気分」で示している。そもそも民主国家において一政党の演説に国旗を持って集合するの自体なんだかおかしくないですか。うまく説明できないけれど、国旗におそらく象徴されるところのこの「国家」も、それを手にしている「国民」も政党より上の立場に居るんだから。

マック赤坂氏が演説をはじめても阪急梅田駅の駅員がそれを止めることはできない(公職選挙法161条の2)。でも駅員さんは止めにやってくる。氏を異分子であるととらえ、「是」という文字を背負っている。  氏は映画の中で、大阪市長選の中、京大に行くのだけが楽しみ(京大はもちろん選挙区外)、と言っている。京大なら「気分」に支配されていないのではないかと期待したのではないかな。そのせいか「学祭スタッフ」(この「学祭スタッフ」はわたしではない。念のため)にかなり怒っている。「何分ぐらいですか?」の問いに「永遠だよ!」の返し。

しかし一方で—「気分」による是非の判断がダメで、公職選挙法に基づく是非の判断が正しいのはなぜ?前者は根拠が無く後者は公職選挙法があるから「根拠がある」といえるのはなぜ?そもそも法が何を裏付けていると言えるのか?結局その時々の立法者の気分次第で決められているのでは?  この点、わたしはもうそれは「そういうシステムにしよう、法にかなうことが正しい、かなってないと正しくないというシステムにしよう」と決めたからだと言わざるを得ないと思う。そういう制度にしたのだ。そしてその適正を確保するチェックポイントも複数つくって、これを「信じて」やっていこうと決めたのだ。そして民主国家を標榜する以上は、その信条を作るのは国民を代表する議会とした。そしてその構成員は国民から立候補者を募り、国民が彼らを選ぶようにした。だから議会は大切なのだ、そこであらゆる是非を決める基準が決まってしまうから。そして議会制度を支える国民が結局は最も大切なのだ、そこであらゆる是非を決める基準を決める前提が決まってしまうから。しかし当の国民は現状の「気分」に支配されている。この「気分」はきわめて原始的なレベルでの「力の強いもの」によってつくりだされている。この「気分」の生み出した平穏、平常に多数の者が安寧している。そしてそれと平行して彼らは無知でいることができる。「気分」に支配された無知な国民が選んだ議会が作った法に基づいて政治が行われていく。もっとも法を恐れるにはあたらない。仮に不都合が生じても「気分」がすべてに先んじるからだ。「気分」を支配する者がすべての支配者だ。

 

☆くりかえし