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「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<展覧会>アートアクアリウムを観に行く。(2012年12月11日)

広東に盲妹という芸者があるということだが、盲妹というのは、顔立の綺麗な女子を小さいうちに盲にして特別の教養、踊りや音楽などを仕込むのだそうである。支那人のやることは、あくどいが、徹底している。どうせ愛玩用として人工的につくりあげるつもりなら、これもよかろう。盲にするとは凝った話だ。

坂口安吾『日本文化私観』より抜粋

 

2012年12月11日、心斎橋大丸へアートアクアリウムを観に行く。 天頂眼という金魚がいた。目玉が出目金のように体の外についていて、眼そのものは上に向かってついている。 ちいさきものは、みなうつくし。がまさしくあてはまる金魚で、顔つきはもちろんひれが短いつるりとした体もかえって可愛らしかった。品種の改造でこんな形にまでできるのかとも思ったし、単純に一匹欲しくなった。 会場で感じたのはそこまでだ。 あとあと調べたところ、天頂眼は中国で作られた種で、目が飛び出た突然変異の個体を、その特徴が残るようにして完成させた金魚らしい。そして…視神経が壊れていて目が見えないということだった。 つまり、あの姿は人間が愛でるためだけのものであって、天頂眼自身にとって何か役目を果たす美しさではないし、眼を目立たせたことで可愛らしさが引き立っているにもかかわらず、当の天頂眼は盲目で、その眼は使い物にならないのだ。 この、綺麗な金魚の姿があくまで人間のためのものであるという発見は、金魚が愛玩動物であって愛玩されるほかどうやら生きていく道はなさそうということを私に改めて確認させたし、さらに言えば愛玩動物でしかいられない金魚に対する美の追求は、金魚のいのちを大切にする方向とはどうも真逆なようだった。 というより、金魚のいのちを材料にした美しいもの探しが、いのち云々よりも美を最優先になされており、それが他の場面での美の追求と変わらない熱心さであること、ここでも、出たな、美の追求!といった感じで、金魚の目が水面と並行になるまで続けられる様は、良い悪いを超えた一連の狂気と感じられた(「帰る前にもう一遍、その刺青を見せてくれ」)。 したがって、丸い金魚鉢にひしめきあうようにいれられたたくさんのきれいなおとと、がぼやけゆらめきながらひらひら泳ぎ回る様をただそれ全体として眺めることが、あの場では正しい見方であったのかもしれない。 そして今思えば、品種名が記された四角い水槽のなかを漂う、改造され様々な特徴を持った金魚たち(その中には天頂眼に限らず盲いたものがいたのだった)を直視することは、時々困難だった。