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「考えたこと」を文字にしようとこころみるブログです/宝塚の話が多めです/でも興味はひろく/観た映画の話もしたいです/パンドラの箱はもうあけてあった

<ミュージカル>HEDWIG AND ANGRYINCH・イツハク考

2012年9月、ヘドウィグアンドアングリーインチのミュージカルを観にいく。

ジョン•キャメロン•ミッチェルが撮った同名の映画を「愛している」。 特に登場人物のイツハクに強い興味があって、もっと彼あるいは彼女?について考える機会がほしかった。 今回の未來ヘドウィグ、背景を原発事故に深く絡めたものにしてあるなど、映画やそもそもの原作であるブロードウェイのミュージカルとは別のヘドウィグなのは明白だが、イツハクが映画とあまりにちがう描かれ方をしている。 イツハクの喋ってるとこだけちがうお芝居みたいだしかわいい女のコだしで、(さらに自分の席のある左側にイツハクが来がちでヘドウィグが来ないので)このイツハクなんなんやームムー!と思っていた。 しかし、イツハクに生殖器自体がないという新しい設定から、イツハクは天使扱い、ヘドウィグ(すなわちあらゆる人間)の抜け出せていない肉体的な問題から離れたところにいる生き物だという解釈に落ち着いた。原発スラムの生残り、最後の白いふわふわした衣装もそう考えるとすっきりするし、何より映画から離れるのがこのミュージカルの見方として正しいのだろう。

イツハクがでていった同じ扉からヘドウィグがでていくエンディングは、結局肉体の問題を乗り越えられないトミー•ノーシス(知識の杖を手にした少年は杖の振り方をただ真似しているだけのアダム)ではなく、イツハクこそがヘドウィグの探す自分自身の片割れだということを示しているのではないかな。 でもそう考えたら自分自身の片割れとか天使レベルに出会うの難しいよねってことになるのかな。 イツハクはヘドウィグに何も求めていなかったし、一方でイツハクの歌う内容は、~してあげる、が繰り返され、ヘドウィグ、アングリーインチのメンバー、観客、そしてあらゆる人間を導く立場からのものだった。 というわけで、お互いに何かをどうしても期待してしまう人間同士で片割れを探すのはとても困難だということだと思う。それはもう自分自身が天使になるレベルに。 ヘドウィグの舞台衣装は終始とてもよかった。歌も踊りも本当に素晴らしい、力強いものでした。表現者。 最後ヘドウィグが歌いながら観客席まで降りて来て、わたしと同伴者の間を通り抜けていったのは非常に嬉しかったです(にわかファン)。 同伴者が未來ヘドウィグに、肩に手を置かれたらしく非常に羨ましかったです(にわかファン)。 イツハクを考える旅はしばらくまた続く。